昭和50年04月24日 朝の御理解



 御理解 第15節
 「氏子が真から用いるものは神もひれいじゃが、寄進勧化をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ。」

 お道の信心は寄進勧化と言う事をしない。ですから本人の自由意志なんですけれども、信心が本当に身に付いて来る。身に付いてくれば来る程お道の信心は御用をさせて貰わなければおられないという心が強くなって来る。寄進勧化というのはまあ勧進帳を持って一番余計出しなさる様な所を、頭に書いてどこそこは幾らだからと言う様にして、寄付を寄進勧化をするそれが勧進帳ですね。如何にもそれは寄進勧化をすれば集まる様にあるけれどもそれではね大した事は集まらん。限りがないというものに繋らない。
 先日もある教会の方のお届けですけれども、今度その教会に御造営が始まった。何でも千五百万円の予算で始められる。教会に五百万円貯っておる。本部を通して借りられるのが十五年払いで五百万借られる。そこで後の五百万を信者に割り当てをなさった。立派に、それで千五百万円の家はいわば建つわけなんです。所が割り当てをされた信者側としては、それを楽に有難くお供えする人もあろうけれども、お供えを今度したきりで辞めようという人も出てきたという様なんです。
 例えば千五百万が二千万になり、二千万が三千万に例えば膨張して行ったらどうなるか。そういう意味で合楽の場合なんかは、二千万が三千万になり五千万になり、七千万になりと言う様に、ここのご造営の時なんかはあれよあれよと言う間にその大きくなって行った。材料を良いものを使う折角するなら、例えばここの応接間とか客殿なんかは予算の中に入ってなかった。それが例えば出来て割り当てだったら絶対出来ないです。それは如何にも出来るかの様にあるようにあるけれども、それでは却って萎縮する。
 金光様の御信心はね、だから寄進勧化じゃいけん。これはどこまでも氏子が真から用いるものでなからねばならない。信心がわかって来れば用える量も、高も又は質も内容も高度なものになって来る。させてもらわなければおられんのですからね。百万お供えしようと思った人が、二百万お供えする様になり、十万お供えしようと思った人が、思いがけなくお繰り合せ頂いて、三十万御供えが出来る様になり、だから例えば神乍に教会で御造営が始まって膨張して行く。
 それがそれだけはコロッと赤字になったと言う様な事ではなくて、それが本当に有難く楽にしかも神様のお働きちゃ素晴らしい事ね、一分一厘間違いのない事だと、皆が感動一杯でそれが出来る。だから寄進勧化というのは、よかごとしてよくはないのであって、問題は神のひれいを受けると言う事だ。真から氏子が用えるものは、神の比礼じゃがと仰る。神の比礼に浴しなければ神様の喜びに、神様の生き生きとした、いうならそれに浴しなければというのが、お道の信心の私は建て前だと思います。
 そこで皆さんの場合お初穂は決めるな、細めるなと私は頂いております。お供えはこがしこち決めとる。此の頃は十三日会なんかでも、一万円なら一万円とちゃんと決めとる人がある。十三日会といえば神の願いの叶う日、その事に参画させて貰うと言う事なのですから、これで神の比礼に浴せられない筈はない。自分がちゃんと決めとるから決めたしこしか出来ん。惜しいです。信心が分かればと私が言っている。
 信心が分かれば例えて申しますなら、いつでも私共の場合は、神様に例えば財産があるとするならば、全財産にのしかけてしもうておる。勿論惜しいも欲しいもないわけです。神様の、お道の信心が分かれば、一切が神様の御物だという、スッキリした心底が出来て来る。心の底からそれをそうと信じておる。ですからねいうなら借金でも、神様の御物であるというところもスッキリして来る。
 私共沢山な借金を致しております時分、借金の事についてから夢思うたことがなかった、計算をした事も勿論ない。もう利だけでも大した事だろうと計算すりゃそう思う。何故思わんで済むかと言うと、借金も神様の御物だからと私は思うとるからです。神様が払いなさるとじゃから。この頃からお風呂の修繕というが、殆どやり直しをやりました。見積りでは十万と言う事であった。所が十九万何ぼですから丁度倍かかった。もう本当にそりゃ何と言うでしょうか、本当にやっぱり金かけた方はある。
 本当にお風呂は極楽と言うが、本当に極楽ムードでお風呂に入らせて頂ける事が有り難い。ほらもう十九万もかけちからちなんてんち一つも思わない。どこかそら間違えとらせんか、十万ち言いよったつが、倍も掛かる筈がないじゃないかと夢思わない。なぜって、神様が払いよんなさるとじゃけん、こっちが思う筈がない。そう言う所のスッキリしとる度合いと言うものがです。
 私は誰よりも違うと思うです。良く言いますよ一切が神様の御物だと。そういう私は用い方これは神様へお供えするというだけの事じゃない。その用い方が、そういう信心になり切る時に、神も比礼じゃが神様も喜んで出して下さる。お道の信心が分かれば分かる程、そこが徹底してスッキリと本当に分かって来るんです。分かって来るから限りなく言うならば出来るだけ多く、例えばお供え一つでも御供えをさせて頂ける事が有り難いと分かって来るんです。
 皆様もそういう限りない、無尽蔵に繋がるようなおかげの受け方を、一つ体得なさらなきゃいけんです。あゝ借金で頭が痛いと、如何に信心の程度が、お道の信心の分かり方と言うものが低いかと言う事が分かります。本当の事がスッキリと分かってない証拠が分かります。もっともっと本当に分からにゃいけん。お道の信心が分からして頂いたら、無限供給、無限、限りのないおかげに繋って行く事が出来る。とても寄進勧化なんて可笑しゅうしてという事になって来るです。
 しかしそういう教会が沢山ありますよ。さぁ大祭記念祭というと、村々をお米を抜いて廻ったりお金を抜いて廻ったり、それが例になっておる様な教会もあります。やっぱそういう教会は一つも伸びません。お供えしよる者があゝ又貰いに来なさったと思うから、不浄をつける。神の比礼どころではない。言うなら神は喜ばんぞと言う事になってくる。お供えは段々私が今日申しました所は、私の頂いておるギリギリの所ですから、皆さんにその通りの事が出来よるとは思いません。
 そこでお供えには喜びと慎みを添えてと、私は頂いております。昔の椛目のお賽銭箱のここん所に、柱に張ってあったですね喜びと慎みを添えて。神様の御ものとまではわからんでも、それは自分のものから、少しばかりのお初穂をさせて貰う。こんな事では相済まぬけれどもと、慎みを持ってけれども、おかげを受けて居る事を思うたら、こうでもさせて貰わなければ居られない。それは自分の物からするのですけれども、させて貰わねば居られないと言う喜びが伴うておらなければならない。
 先ずはここん所が分かる様になると良い。それこそお初穂は決めるな、定めてはならん定めとっちゃならんそして細めるな。去年百円お供えが出来よったなら、今年はおかげで二百円の御供えが出来るようになったという、その喜びが素晴らしい。来年はどうでも三百円なっとん、五百円なっとんの御供えが出来るように、おかげを頂きたい。内容が出来て来る。みんながおかげを受けなければならないと言う時には、一生懸命が出ます。だからこの一生懸命が伴うておると言う事も、まあ有難いんのです。
 今合楽で本当に纏まった御用も出来る、財の上にでもおかげを頂いて居る人達は、殆ど今難儀な所にある人達が多いです。それですから一生懸命です不思議にこの人達はおかげ頂いとるけん、どげな事したっちゃよかと言うごたる人達はもうそれこそお少分なこつです。だからこういう信心じゃいかんです。お月次祭度にお神酒さんの一本でも持って来ればそれで済んだと思うておる。所謂根本的にお道の信心の頂かたと言うものが間違っているからです。おかげを頂いても信心を頂いていないからそう言う事です。
 これでは無尽蔵とか限りないという力に繋らないです。これは不思議ですだから皆さんもです、やっぱり限りないおかげの頂ける様な、神の比礼と神様がそれこそ、ドキドキしなさる様なお供えでも出来る位なおかげを頂かなきゃならん。為にはおかげを受けなければならん。一生懸命だけじゃいかん。それこそもう本当に楽に楽に有難いおかげが頂ける様にならにゃいかん。もうてぇげぇ有難かおかげ頂ける様になっとるばい、あの人はと思うてもです。所がそういう人に限ってお少分な事です。
 だから信心が出来るじゃなくて、おかげを頂いてです。段々細まりゃせんでもお供えが伸びんごたる事では、こげな神様に対して相済まん事はないですね。それこそここ一日、二日のお話しじゃないけれども、思えば思う程合楽なくば我なし、合楽あって現在の我があるという程しの事が感じられるおかげを受けておるとするならばです。それだけのおかげに対する所の信心が、果たして出来ておるかと言う事を、改めてここに思うて見なければいけないと思います。
 それだけの信心が出来ておればです、それだけの事が神恩報謝の、それだけのおかげを頂いておるならば、それだけのおかげに対する神恩報謝の真も、それだけ伸びておらなければならない。私ここ二、三日の御理解を頂いてから、今日の御理解を頂いてそこを今日十五節を頂いて一番に思うた。あゝ有難いなと。成程皆さんが御礼を言われる様に、合楽あって自分があるんだという、本当におかげを頂いておるなぁ、よう辛抱したなぁと御礼を言いたい様な心持がするんですけれども。
 果たしてその人の信心がどこまで伸びとるかと言う事を、おかげは伸びとるけれども、信心はそこまで伸びてはいないのではないか。いつまでも喜びと慎みを添えても、段々喜びも慎みも欠けてきて、お初穂ちゃ本当に真似方のもんだと思い込んで仕舞うて、五年前も今日も同じ事である様な、もしおかげを受けておるという実感の、例えばある人達がですそれであるとするならばそれは可笑しい。ここに考え直さなければいけない。考えを変えると云うか、信心の焦点を置き直さなければいけない。
 私は皆さんにね、お供えをせよと云うのでは決してありませんですよ。それこそ寄進勧化したら馬鹿らしかと、私は思うとるですから。けれどもね限りないおかげに繋って行くおかげを頂いて貰いたいから云いよるとですよ。そんならおかげを受けておる事に対するところのです。氏子が真から用いるのは、神も比礼じゃがと云う、その用いる。用いる例えば程度というものもです。
 段々成長して来なければ、金光様の御信心にもとる事になる。おかげを頂いてもそこん所は、云うならお少分な事では、おかげ神も比礼じゃがと云う、そういう神様の愈々の比礼を受ける事は出来ないと思います。氏子を痛めては神は喜ばぬ。割り当てでお供えを頼むという様な事では矢張りいけません。けれども本当に大きなおかげの頂ける事の為の信心を皆さんに聞いて貰うて、その信心と共にです神様もお喜び頂ける、神も比礼じゃがと云う様なです。
 私が信者時代に思いよった事を、今から思うて見ますとね。神様がほんなことドキドキしよんなさったっじゃなかろうかと思いますよ。もうとてつもない事を思いよった。出けん時ですよ、何も修行中ですから。だからそういう思いに向かって信心を進めてきておる。所がねその時思いよった位な事ではない様な、御用が今出来ておると言う事実なんです。まぁだ私がです十円の金にでも困っておると云う時に、私の思いの心の中というのは大変なものであった。
 だから信心が分かりにつけおかげを頂くに連れて、それが出来るようになった。今おかげを頂いております、合楽あって今日がありますと例えば云うておる程しのおかげを頂いておりながら、そういう願いを持たんから何年前も今日も、お初穂ならお初穂でもお供えならお供えでも、一つも伸びないと言う事になるのじゃないでしょうか。皆さん神様がほんなごて、ドギマギしなさるごたる、一つ思いを立てなさいよ。
 二十年前に私が思うておった様な事がです、今は私がその時思いよった事は、その様な事でしたけれども、現在の私はその位な事ではないおかげが頂けております。これはまあ寄進勧化になるかも知れませんけれども、敢えて聞いて頂くなら、昨日久し振りで親教会御造営の箱を開けさして貰うた。毎月開けよったあそこ二、三ケ月。私は開ける度に成程これはさすが合楽だなぁと思う程あった。所がどうでしょうか七、八ケ月振りに今度は開けたんです。所がその時分の二月分しか入いっとらじゃった。
私が全然御造営の事を言わんからじゃろうか。初めの間はどうでもと云うてです、あれにお供えをなさりよった方達が、私が始めた鼻はあったんですけれども、途中から止んだ人達が沢山あると言う事が分かります。それこそ細める所か無くなってしまっておる。私は、親先生の居られる時に申しました。私共は月々こういうおかげを頂いとります。と云うて、あらかじめ月々の金額を私は話した。ほうら有難い事のと言うちから、言いよんなさいました。
 だからその行き方で行くならば、本当に相当の金額になっておらにゃならんけれども、私が毎月を止めて、放うたらかしたりしとったら。昨日誰れん取ったわけでもないでしょう。けれどもまず殆どないです。あそこ二月か三月かした分の金額が、この四月が年度末だから、この四月には信者さん方の有志一同でお供えしようと思うて、言うとったから、昨日、誰かがあそこへ皆集めてくれている。
 それを見せて頂いてからです。それこそお供えは決めるな定めるなとか細めるなとかと言われておるのに、無くなってしまっておると様な事では、本当に相済まん事だと思います。皆さんその時にです。発心されて親教会の御造営には、月々でも日々でもこうと決めたらです、それを矢張り百円ずつと思いよったつが、二百円ずつ位になるぐらいなおかげを頂いておるならば、それはその人の信心は見事と言えるのですけれども。無くなってしまって居るという事は残念。
 初めの間は成程、さすがに合楽だなと思う様におかげを頂いておったけれども。だから何か今日は、私はお供えに持って行かなきゃならんのですけれども、何かこうしらごと言いよったごとして気の毒な様な感じがする。だから教会のお下がりでも、少しそれに添えて持って行こうと思いますけれども。こと神様へお供えするのですから、最初の意志が段々細うなったり、無くなったりではいけんじゃないですか。
 神も比礼じゃがと神様は生き生きと、それこそ合楽の信者の心映えとでも申しましょうか。そういうものを打ち出して、神様へ打ち向かうて行くおかげを頂いて貰いたいと思います。願いはです一つ皆さんが、本当に神様がそれこそ喜んで下さると言うか、表現が悪いですけれども、神様の方がドギマギしなさる様な願いを立ててです。それに向かって進んで行くとするとです、信心が進んで行くに従っておかげも進んで行く。そこにです私が今日おかげを頂いておる様なおかげにも頂けるようになってくる。
 所がおかげを頂かんならん時は、一生懸命じゃったから出来よったけれども、おかげを頂いてしもうたら、もうそのままいつもかつも同じこっで、もうそれこそ感動もなからねば歓びもない。慎みもないと言った様な事で、御用が終ったんでは限りないものに繋って行くと言う様な事は及びもつかんことです。限りないものに繋って行く事の為にです、一つ大きな願いを発願をして、それを細めず定めず、段々それが成長して行く様な、一つおかげを頂いて貰いたいと思いますね。
   どうぞ。